キリギリスの場合、働きながら私的生活を充実させるという意味のワークライフバランスも逆立ちして遊びがやめられず働きが追いつかない最悪の多重債務者への道が待っている。何故そんなことが起こるのか?そこには教訓=道徳なんてものが無意味なほどそもそもバランスを欠いた心の病が隠れている。
14 Jun 2017 01:53

キリギリスの場合、働きながら私的生活を充実させるという意味のワークライフバランスも逆立ちして遊びがやめられず働きが追いつかない最悪の多重債務者への道が待っている。何故そんなことが起こるのか?そこには教訓=道徳なんてものが無意味なほどそもそもバランスを欠いた心の病が隠れている。 



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コーヒー好き=蘭豆好き/ほう! Oh ! =鳳凰

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往々にしてMに興味を持つことは死の淵を歩く「死の欲動」(後期フロイト)が働く場合が多い。それは劣等克服論(アドラー)や欲求段階説のピラミッドの頂点にある自己実現(マズロー)などとは間逆のベクトルにある絶体絶命の自殺願望が素顔であり、心の安定どころではないことが現実の場所だ。 キリギリスの場合、働きながら私的生活を充実させるという意味のワークライフバランスも逆立ちして遊びがやめられず働きが追いつかない最悪の多重債務者への道が待っている。何故そんなことが起こるのか?そこには教訓=道徳なんてものが無意味なほどそもそもバランスを欠いた心の病が隠れている。 ルサンチマン(怨恨)はバランスを欠かざるを得なかった環境に置かれた弱者の道徳として思考以前の情動的な反動を引きずる。しかし、その根っこには恨み辛み妬みしかなく、晴らさた途端にそれは見栄やエゴに簡単に姿を変える。そもそも自分の考えが簡単に裏返ること自体が無思想の表れなのだから。
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